クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。
>>?過去のクローズアップ藝大
第十回は、美術学部長/先端芸術表現科教授で、美術のフィールドを飛び越えてさまざまな分野で活躍するアーティストの日比野克彦先生。令和2年1月、美術学部長室にてお話を伺いました。
【はじめに】
日比野先生の部屋に入ると目に飛び込んできたのが天井からつりさげられた大きな2つの人形と部屋の真ん中の机に置かれたこれまた大きなソンブレロでした。藁とヤレイを編んで創作されたこれらの作品は南米の高齢者施設で日比野先生が行ったプロジェクトの成果。入所者に編み方を教えたら、見事な作品が出来上ったと嬉しそうに話してくれました。
ソファの上には何やら大きな紙袋。サッカーのユニフォームが詰まった袋の中から女子サッカー選手のユニフォームをいくつか取り出してきたので早速それを着ることにしました。すると日比野先生も飾ってあった日本代表チームの最新ユニフォームにチェンジ。サッカーに情熱を注ぐ日比野さんのフィールドに入ったことで楽しい雰囲気で対談がスタートしました。
国谷
日比野先生の活動が多岐に亘るということで、今日はサッカーのユニフォームを着てやりましょう(笑)。
先生は日本サッカー協会の社会貢献委員会委員長でもあり、本学はサッカー協会とは社会貢献活動推進の連携協定も結んでいます。具体的にはどのようなことをなさっているんですか?
日比野
藝大の授業としては、学生がサッカー協会がやっているSDGs的な社会貢献活動を撮影しに行って、編集した動画をサッカー協会のホームページで発信したりしています。
Jリーグも地域に根差したスポーツクラブだから、地域との連携を確実に進めてきています。スポーツは必ずアートより先に動く。アートもこれに追随して動こうとしている背景があります。
国谷
藝大生に藝大自身がやっているSDGs的なことも発信してほしいと思います。いろんな先生方がやっていらっしゃることを、目に見える形で。
日比野
そう。そこを大学として発信していきたいですね。個々の先生方がやっている部分を大学としてまとめれば、もっと藝大の魅力をアピールできるのかなって。そういう時期だと思いますね。
僕が携わっている「DOOR(Diversity on the Arts Project )※」という履修証明プログラムは、「福祉×芸術」って言っているけれども、こういう活動は「福祉」にとどまらずいろんな社会的課題を抱えているコミュニティに広げていける。いろんなコミュニティにアーティストがいてコミュニケーションをとって、それが習慣になっていく。作家になるだけが藝大生の目的じゃないという部分は、これから藝大として実践していかなくちゃならない。
国谷
就職先としても繋がっていきますね。
日比野
藝大生って、使い様によれば使えると思うんですよ。使いにくいかもしれないけど、使えればどこにも無いような、どこの人材にもいないような使い方が。組み合わせによってね。
国谷
日比野先生は、早くから社会と芸術との接点の中で制作活動をされていたイメージがあります。
日比野
僕はデザイン科出身なので、社会と関係性を持つというところが枠組としてあったし、興味があった。中学校の時の美術の先生がデザインの先生だったんですよ。それでポスターとか宣伝とかコピーづくりを授業のなかでやったりとかして。
国谷
小学生の時は漫画家とサッカー選手を目指していたけれど、高校1年の時に、「生きることは自分を表現することなんだ」と気が付いてアートを目指すようになったと。
日比野
当時、通っていた高校では1年生から受験戦争が始まっていた。入学式の時から文系理系分けられて、志望校を担任に聞かれて。
この言葉はそんな時に出会って、「自分を表現するものは何かな」と考えたんですよね。「自分の描きたいことを描けているな。美術に行こう」って決めた。それが高校1年生。
国谷
その「生きることは自分を表現すること」という言葉にはどこで出会ったのですか?
日比野
たまたまテレビを見ていたら、コンテンポラリーダンサーがすごい踊りをしていて、インタビュアーがそのダンサーに、「あなたはなぜ踊っているんですか?」と質問したらダンサーが、「自分のことを表現するために踊ってるんです」と。矢継ぎ早に、「あなたにとって表現するとはどういうことなんですか?」と聞いたら、ダンサーは「表現することは生きることなんです」と答えた。「生きるためには表現すればいいんだ」って、その言葉と出会って、自分は美術で表現しようと思ったんです。
国谷
テレビも役に立ちますね。素直な日比野少年の中にはその言葉がスーッと入ったのですね。
日比野
きっと、当時悩んでたからその言葉がスッと入ってきたんだろうね。その時にサッカーを辞めて、頑張って藝大に入った。でも、サッカーが諦めきれてなくて、今頃サッカー熱が重くなってる(笑)。年とってからのおたふく風邪みたいな。
国谷
藝大では「I LOVE?YOU」プロジェクトを立ち上げて、オリンピック?パラリンピックイヤーに向けて動いています。
日比野
「I LOVE?YOU」プロジェクトでは、芸術が社会の中でどれだけ必要とされているのかをあらためて問い直し、芸術によって社会は豊かになる、更に社会課題を芸術が解決できるんだということを発信していきたいんです。
藝大は作家を育成する教育機関っていうイメージがあるけれども、社会貢献するという役割もしっかり意識していますよっていうことを発信する。
国谷
Iが「芸術」で、YOUが「人」ですね。
日比野
はい。「芸術は人を愛する」。
国谷
その言葉に込められたのは、芸術というものの役割なのでしょうか。
日比野
この言葉が生まれてきた背景は、科学や宇宙が解明されて将来ほとんどの職業はAIにとって代わられるみたいな話がある中で、「人が人たる所以」って何だろう? それは芸術にあるんじゃないかっていう想いです。人が芸術を行うんじゃなくて、元々芸術ってものがあったと思うんです。全ての人間にとって、自分たちの誇り、アイデンティティは何かって言うとやっぱり芸術性だと思うんですよね。根本に芸術があって、その上に国や文化や経済がある。そのことを、藝大がちゃんと声高に言って行かないといけないんじゃないかなと。
国谷
そもそもなぜいろんな芸術が生まれたかっていう原点の部分です。皆既日食とか科学的なことが解明される前、人間が自然界の不思議なものや不気味なものを見ながら、それに対して気持ちを表現したり、自然界に状況を治めてもらおうとして、いろんな歌や踊りや表現を作り出したと言われています。人間の気持ちの衝動的な部分から想像力?創造力が喚起され、芸術が発生する、というふうに捉えることができます。
日比野
それと、どんどん技術が進んでVRとかAR、ゲーム的なものが溢れています。その一方で藝大には昔からの伝統的な技法もある。鉄を溶かし石を叩くのと同時にネットも使いこなせるっていうのは藝大生にとっては当たり前。だけど世の中の一般の人はそうじゃないですよね。
伝統的なものは芸術を高める力がすごくあるし、最先端のものは発信力がある。この両方を備えた藝大生だからこそ社会に貢献できるんだと思います。
国谷
「I LOVE?YOU」プロジェクトは学内応募でたくさんのプログラムが採択されました。このプロジェクトを通じて具体的にどういうものが発信されればいいなと思いますか?
日比野
まず個々のプログラムが、なぜこれが「I LOVE?YOU」のコンセプトに合致していて、なぜこれが社会の課題を解決することになるのかっていうことを一番最初に掲げています。
演奏会、展覧会、講演会、シンポジウム、何であれ、参加者に、「芸術ってそんなやり方があるんだ!」「芸術ってこんな役に立っているんだ!」「課題解決型なことも有り得るんだ!」と気付いてもらえるような視点を大切にしています。
国谷
私は「I LOVE?YOU」のTシャツ、ちょっと短めなのを作ったらかわいいなって。入学式とか卒業式で売ったらいいのにと、単純に思っているんですけど。なかなか「I LOVE?YOU」お目見えしないので。
日比野
今度一気にプレス発表を行います。一気にどーんと。
国谷
早くしましょう。
日比野
はい。がんばります。澤さんも一緒にプレスの記者会見をします。
※記者会見は、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大防止のため、延期となりました。(2020.3.10)
>>?東京藝大「I LOVE YOU」プロジェクト2020
国谷
芸術に対する風向きは、オリンピック?パラリンピックでの日本の文化発信ということでは追い風が吹いているようで、一方では「あいちトリエンナーレ」のように表現の自由とか自由な創作といったことに対して基準を狭めるような、あまり風通しのよくない感じもあります。
日比野先生は芸術家の感性が社会の中で多様な視点を与えて、寛容さとか社会の中の豊かさを育むということを大事にしていますよね。今のこの空気はどのように感じていらっしゃいます?
日比野
パラリンピックもそうだけど、寛容になっていく精神がある一方で、例えばSNSの中はもう全然寛容じゃない、とげとげしい。その両方がある今は過渡期のような気がするんだよね。
全てを受け入れようって言いながらも、片や「私の世界に入ってこないで」みたいなことがこの3、4年すごく顕著になって。SDGsとかダイバーシティって言葉が世の中に広まっていく一方、他者排除みたいなものも同時に広がっている。このまま両方とも速度を増して行ったら、ちょっと人間やってられない。社会の中が、かなりきつくなる。やっぱり人間は生き残るために自分たちで軌道修正するしかないと思います。
国谷
芸術の力とか役割を伝えるのは簡単ではないですよね。
日比野
芸術を数値化するって難しいじゃないですか。でも国からは、評価を数値化して出しなさい、他の大学と比べてその数値が高いところには交付金出しますよ、っていうのが一律に来る。
世の中の芸術が全て数値化されて、藝大に来る子たちも「どうすれば評価上がりますか?」ってなっちゃったら、何のための藝大か、何のための芸術かわかんなくなっちゃう。
そんな計算ができる芸術はきっとAIにとって代わられて、優秀なAIの藝大生が生まれてしまう。それは違うでしょ、全部数値化される社会ってどうなのよってことを、国に対して言って行きたいですね。よく藝大は「唯一の国立芸術大学」って言われますが、唯一なら、なおさらそこは藝大が現場の声として言っていかないと。
キューバでのワークショップで製作された藁とヤレイの作品
国谷
そういう発信力を持つとか声を挙げて行くのであれば、なおさら圧倒的な芸術の力で社会貢献していますとか、社会との接点がたくさん生まれていますとか、そういうものを出していけたらいいなって思います。その意味でも、先生は、多様な人々の出会いによる相互作用を表現として生み出すアートプロジェクト、「TURN※」に相当、力を入れていらっしゃる。ただ、この「TURN」という言葉がなかなか理解できなくて。回るとか引き返すとか、言葉の意味をまともに受け取るとそうなりますが…。
日比野
「TURN」を生み出す経緯のなかで、あるとき会議で、「陸から海へ」っていう言葉が出たんです。人間は生物的に進化して海から陸地に上がって、今人間になっている。そこで、海から陸へじゃなくて「陸から海へ」で、元々人間が持っている力をしっかり意識しようって。
さっき国谷さんが言った、元々あった人間のイメージする力?創造力って、だんだん進化すると人間は忘れちゃう。便利なほうがいいからね。進化の課程で蓋をしてしまった能力がたくさんあるから、「それをもう一回意識しに行こうよ、陸から海へ行こう」という意味で、その行為を何て言おうかっていうことで「TURN」が生まれてきた。引き返すっていうか、ちゃんと自分で心の底に元々あったものをもう一回確かめに行く、みたいな意味での「TURN」です。
国谷
人間の本能的な感情とか衝撃とか、もっと感じ取れる人間の部分を呼び起こそうということでしょうか。その現場としてアーティストがレジデントになったりしているのが、障害を持っている方々が生活している福祉施設や障害者施設です。それはなぜですか?
日比野
一番最初のきっかけはやっぱりアール?ブリュット※です。障害を持った人たちが描いた絵画とかに興味を持って、その人たちが描いてる現場を見たいと思って福祉施設に行くようになったんです。
例えば色鉛筆と白い紙があって、そこに風景を描こうと思う。水色の色鉛筆があったらそれを取って空を描く。対象を見て、似た色の鉛筆を探して描く。それがこの道具の使い方だと思いますよね? それが彼らは違う。
色鉛筆で描かれた絵を見て、「すっごい絵だな。色鉛筆でぎっしり描いてある。かっこいいな」って思って、その作者に会いに行ったんです。色鉛筆ってきれいにグラデーションで並んでいますよね。赤、オレンジ、黄色、黄緑って。それをその作者は端っこから取って使って、芯が無くなると電動鉛筆削りでウィーンって削る。描く、ウィーンって削る、描く。その繰り返し。鉛筆がちびっこくなるともう鉛筆削りに入らないから、それを置いて、隣の色に移るんです。それでまた描いて、ウィーンって削る。それが結果的にすごい絵になる。
その作者にしてみれば、鉛筆削りが好きなんです。ウィーンってやりたいから鉛筆を摩耗させて、削ることが目的で、絵は単なる色を減らすためだけの色面なんですよ。でもそれですごいものができる。絵の描き方とか道具の使い方が全く違う。
自分は自由だと思ってたのが、「あれ? 色鉛筆の使い方を決め込んでた?」みたいな。かなりうれしい衝撃。これはまだいろいろあるんだなって感じた。
障害者施設とか福祉施設とか限界集落とか、世の中的には不自由だと言われるようなところに行くと、アーティストから見れば興味のある出会いがたくさんあるんです。それと同時に僕の中では、社会的な課題として、弱者とか福祉の対象となる人への理解を求めるっていうのもひとつのラインとしてあった。だったら、そういうところに行くとすてきな面白い人がいるよっていうことを取り込むことによって、そちらの福祉的なものの発信もできるなと思って。
※アール?ブリュット=フランス語で「生の芸術」を意味する。フランスの画家、J.デュビュッフェは幼児、精神病患者、囚人など美術の正規教育を受けていない人々が他者を意識せずに創作した芸術をアール?ブリュットと呼んで高く評価した。アウトサイダー?アートとも呼ばれる。
国谷
どちらが最初のきっかけですか? アートを社会的な、多様性につなげていくっていうことから発想されたのか、それとも、原点的な刺激を受けて自分の想像力がもっと自由になる場、アーティストとして大事な場だという思いからなのか。どちらから?
日比野
それはアーティストですね。この世界って、一定の技術を満たして上手に描けるようになると、次は個性を求められる。そうするとそれまでの技術は役に立たない。僕がデザイン科の学生だったときはクラスに45人いたんですが、その中にはいろいろいるじゃないですか。すごく緻密な作業が上手いとか、色彩感覚がいいとか、立体的な感覚がいいとか。みんないろんな個性を持っているけれど、自分らしさって自分ではけっこうわかんない。同級生から「これ日比野らしいよ」って言われて気づいたりする。3年間ぐらい一緒に生活していると、お互いに趣味とか生活とか性格もわかってきますから。僕も昔はきちんと緻密に描いたりしてたんですよ。
国谷
本当ですか?
日比野
それが苦しくて、でもがんばろうみたいなことをやってました。絵を描くときって、こんな感じで行こうと思ってラフスケッチを描いて、それを清書するわけですけど、ある講評会のときに、「このラフのほうが日比野らしいよ」ってふうに言われて、「え? これ俺らしいのかな」って。これは楽でいいやみたいな。
国谷
(笑)
日比野
でも本当にそうですよ。僕も学生に対して教えるけど、「無理するな」と言います。辛いと思ったものは合ってないから楽しいことをやったほうがいいよって。
それからはフリーハンドとか気楽に描けるもので作る今の作風になって来たんだけど、そうやって見ると、もっとフリーなやつがいるわけですよ。「うわ、なにこれ!? ちょっとどうやって描いたらこんな世界に行き着けるの?」って衝撃を受けて、アール?ブリュットの作品に興味を持ったんですよね。
国谷
社会課題と芸術がつながらなければいけない、そういう理念的な理由からではなかったのですね。
日比野
自分の作品のオリジナリティを出すためにそういうところに行き着いたんだと思います。障害を持った人の絵だけじゃなくて、その中には子どもの描いた絵もあるし、プリミティブアートもあるし、民芸品もある。優秀な作品が集まる展覧会場より、もっと巷に衝撃的な作品があることに気づいた。そういったことの延長線上に、障害者とか福祉施設がある感じです。
国谷
アーティストがコミュニティに入って行って、出会って、共同作業をすることによって社会と繋いでいくっていう、そういう概念は後付けで作り出して行ったわけですね。
日比野
そうですね。「TURN」はそういう体験をベースにして、いろんなアーティストや藝大生が中心になって、最初は国内で始まり、南米とかに海外展開もしています。
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