クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。
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第十三回は、美術学部建築科教授の青木淳先生。本学へは2019年に赴任し、時を同じくして京都市京セラ美術館の館長にも就任しました。令和3年1月、研究室にてお話を伺いました。
【はじめに】
青木先生が館長を務めている京都市京セラ美術館は平安神宮の大きな鳥居のすぐ横にあります。建てられたのは1933年。その重厚な佇まいは近寄り難さすら感じさせていました。数年前に大規模改修が始まると、私の実家から歩いて5分という近さにあるためか、いったいどう変わるのか気になって仕方がありませんでした。
改修は建物をそのまま残しながら行われましたが、改修後の美術館は、とても開放的で、すっと吸い寄せられそうな空間へと大きく変貌していて驚かされました。一つの建物のありようが大きな空間全体を変える力を持つことを目の当たりしたのです。
この美術館のリノベーションを手掛けられ、その後、館長にも就任したのが青木先生です。これまで、どんな発想で空間作りに挑んできたのか、建築家に今、求められているものとは何か。藝大の美術学部建築科にある青木先生の研究室を訪ねました。
国谷
私の実家は京都市京セラ美術館から近くて、ほとんど私の風景の一部なんです。美術館のオープンが遅れて、大変でしたね。
青木
そうなんです。3月21日オープンの予定が延期になって、やっと5月26日に開けることができました。しかも、その後の2、3年分の展覧会、全部の組み替えをしなくちゃならなくなってしまって。
国谷
コロナ禍で、人と人が集まってはいけないという、私たちが全く想像していなかった規制が生まれました。その中で、青木先生はどうなさっていますか?青木
京都はもちろんのこと、藝大にも行けなくなりました。僕のアトリエは表参道にあるんですけど、3月の終わりに「明日から事務所に来てはだめ」って、十数人いるスタッフを皆、在宅勤務にしました。アトリエにも行けなくなってしまいました。でもそしたら、やっぱり仕事にならない。
国谷
それはコミュニケーションという点で、ですか?
青木
はい。普通、僕たちは設計をする時、模型を使います。図面を起こして模型を作って、「ここは違うかな、こうしてみて」と、カッターナイフで模型を切ったり、貼ったり。模型が作業の材料なんです。それはリモートではできないでしょう?
国谷
できないですね。
青木
模型も一カ所から見るんじゃなくて回り込んだり、近くへ寄ったり、遠くから眺めたり。そこで、えい、一回集まってみようと声をかけて集まったら、あっという間に作業が進んだ。それで、僕たちの仕事はリモートでできるかなと思っていたけれど、やっぱり無理だと悟りました。できるかぎり大きくゆったりとしたスペースで集まって、皆で作業するのが一番いいですね。
国谷
今まで全く売れなかった郊外のリゾートマンションが売れ出したり、郊外への移住が増えたり、都心では大手企業がオフィスのスペースを減らし始めているそうです。これは相当、建築に影響があるのではないでしょうか?
青木
そう思います。
国谷
最近の住宅は、先生のランゲージでいうと使い方が先にあるように思います。東京23区内でも駅近の高層住宅で、エレベーターを降りたら駅に直結。そういう都市作りが人気を集めていました。機能性や利便性を重視した都市政策が行われて、建物自体も気密性が高く機能性重視だったと思います。それが、このコロナ禍で、エレベーターにも乗りたくなくなった。
青木
エレベーターは密室で怖いですものね。コロナがやってくるまでは、特に地方都市では、周りは畑でもいいけれど、なるべく駅のそばに人と施設を集めて、街をコンパクトにしたほうがいいという考えが主流でした。過疎対策です。でも、コロナ禍で、その方向で本当にいいのかって。なんでもかんでも、集まるのがいいというのでも、逆にバラバラがいいというのではなく、時と場合に寄って、集まったり、離れたりできるにはどうしたらいいか。もしかしたら、人と出会ったり、一緒に居るための拠点と、人と離れることができるための拠点の2つがあるといいのかなあ、と思ったりします。
国谷
私の実家は京都の築100年ぐらいの家屋で、木の雨戸を閉めてもちょっと隙間があったりして風通しがよいけれど冬はとても寒い。そういう意味では“密”というのはあまり感じない。
青木
兼好法師の『徒然草』にも「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と書かれていますね。寒さは暖を取れるけれど、夏の暑さと湿気はどうしようもなかった。昔の家は夏に合わせて作られていましたね。
国谷
耐震も心配で、土台を見ると細い足で建っているんです。「耐震補強した方がいいですか?」って大工さんに聞くと、「これは揺れるようにできている。どこかを補強してしまうとかえって壊れるから、やらないほうがいい」って言われて。家というものは素材にしても作り方にしても、その時代時代に合わせて本当に微妙なバランスで作られていると思います。
青木
昔の家は、揺れて木材と木材の継ぎ目がギシギシすることで、地震のエネルギーを吸収していました。その効果を計算するのは難しいので、今は計算が楽なように継ぎ目をガチガチにしてしまいました。でも、どんなに頑丈にしても限界はあるでしょう。だから、最近では、わざと壊れるところを決めておくという方法もとられるようになりました。ある意味で、昔を見直したというか、昔に戻ったというところもあります。
密か疎かということについても、実は、旧帝国ホテルを設計したこともあって日本でも有名なアメリカの建築家、フランク?ロイド?ライトは、大都市の人口集中を避けて、人里離れたところに分散する都市を提唱しました。電気通信技術と自動車や飛行機のような高速移動技術があれば、人は自然とともに生活できる、って。1930年代にもう、そういうことを提案していたんですね。今、そんなアイデアが切実に思えたりしますね。
国谷
1990年代から日本の経済成長は滞りました。そのため経済の活性化策として容積率制限が緩和されて、建物を高層にして収益率を高める方向になり、東京の街並みも一変しました。地方都市も同様です。同じ土地でも効率的にお金を稼げるようにという発想で、暮らしや場所を考えてしまった。
青木
経済的に豊かになれば、生活も豊かになるという理屈ですね。あるところまでは、それはそうだったかもしれないけれど、とうに限界を超えてしまいました。このまま進めば、地球は僕たち人間が住める星でなくなってしまう。コロナ禍はつらい事態だけど、豊かさを経済という指標以外で測ることの大切さを突きつけているところもありますね。
国谷
先生は今、どのような仕事をなさっているのですか?
青木
今設計しているなかで中心は、長野の松本で2028年に国体があるんですが、その陸上競技場です。
国谷
わあ、今度は競技場ですか。初めてではないですか?
青木
はい。初めてです。去年そのコンペがありました。コロナ禍の中でリモートワークだとうまくいかなくて、皆で集まって模型で案を練った。それが通ったんです。
国谷
おめでとうございます。
青木
ありがとうございます。前から不思議だったのが、陸上競技場って、巨大な塊で、街なり自然の中にドカンと建っているじゃないですか。大会がある日は、そこに向かって四方から人が集まってくるし、高揚感も演出できていいかもしれませんが、そうでない平常時は、閑散として、そこに入ることもできない、街にとっての邪魔者でしかないですね。
国谷
デッドスペースみたいになる。
青木
はい。今回の陸上競技場は、松本空港を取り巻いてできているドーナツ状の公園の中に作られます。街からは離れているけれど、1周で10キロメートルあって、走るコースも整備されているので、車でやってきて走る人も多い人気の公園です。であれば、公園に開かれた陸上競技場ということを真剣に考えていいのではないか、と思ったんです。調べると、そういう陸上競技場はあんまりないんですね。あるとすれば、それこそギリシア時代だったり。
国谷
コロシアムみたいな。
青木
第1回近代オリンピックは古代ギリシアの遺跡を使って行われました。それがパナシナイコ?スタジアムと呼ばれる競技場ですが、地形を活かして掘り込んで作っていて、開けているんです。そういうのがいいなあと設計しました。そうしたらコロナの時代になってしまって、新しい生活様式におけるスポーツ施設の在り方が問われるようになって、皆が閉じ込められた中で密になって観戦するんじゃなくて、公園の中で開かれながら観戦できる方がいいんじゃないかということで選ばれたんです。
国谷
先生はいつも“開かれる”ということをおっしゃっています。それから“原っぱ”と“広場”も大好きな言葉だと。用途を設計者側で決めないことに、とてもこだわりをお持ちですよね。
青木
それを意識している訳ではないんですけど、案を考えていくと、いつの間にか、その方向になってしまっています。何か嫌なんですよね、閉じ込められている状態とか、ここへ行ったらこれをしなくちゃいけないという圧力が。例えば、ホールでは演劇とかライブがありますけれど、そこに行くと楽しいと思う反面、どこか窮屈な気がする。行ってみたら思わぬ事が起きる場所が一番好きなんです。
国谷
現代の建物は、機能がどんどん研ぎ澄まされていますよね。ホールならホールで演奏家がうなるような音響効果にするとか。一方、先生がこれまでお作りになったものは、美術館でも通り抜けられたりとか、プールの施設でも上を突っ切って行けたりたりとか、屋上がつながっているとか。今までそこに来なかった方々も訪れるようになって、来場者が増えたという評価をよく聞きます。それは建物の機能というよりは、先生がいう“原っぱ”や“広場”という言葉で表せるのでしょうか。
青木
そうですね。求められる機能を最高の状態にすることはもちろん重要ですが、もっと重要なのはその空間が「遊べる」ことだと思っています。ホールであれば、演奏家がそこで演奏することで、その人がそれまでに感じていた以上の音楽が作れた、という喜びが持てることだと思うんです。演奏してみたら思いがけず、自分が変わってしまう。しかも楽しい方向に。それが「遊び」の意味です。僕にとって“原っぱ”は子供の頃そんな場所でしたから、そんな性質を持った空間のことを“原っぱ”という言葉で代表させています。演奏「させられる」空間では楽しくないですね。自分がそこで演奏したくなって、演奏してみたら、知らない音楽になっていた。そんな奇跡が生まれる空間が作れたら最高です。そのためにはもちろん音が良くなければ話になりませんが、それ以上のことが必要だと思うんです。
陸上競技場は、自己記録更新ができることが、アスリートにとっての喜びですね。こんなに速く走れた新しい自分、こんなに高く遠く跳べた新しい自分に出会えることです。そのためには、競技面の仕様が大切なことは当然ですが、観客の応援がすごく後押ししてくれるそうです。だからできるかぎり、観客席をトラックやフィールドに近づけたい。アスリートと観客が同じ目線になるようにしたい。すると、100メートル走のゴール横あたりの席を増やすのがいい。また走っている視線の正面に、多くの観客がいたら気持ちは盛り上がりますね。そこは大きな観客の壁が立ちはだかるようにならないか。そうやって設計していくと、競技場は整った形にならない。密な場所と疎の場所があって、疎の場所では公園に開かれることになります。
国谷
陸上競技場を設計するにあたっていろんなスポーツを観に行かれたんですか? そのことに気が付くのは大変なことです。
青木
アメリカのオレゴン大学の競技場(ヘイワード?フィールド)が、アメリカ陸上競技の聖地と呼ばれているということを教わったりしました。コロナで見に行くことはできていませんが、写真で見ると客席が一様じゃなくて、いろんな形をした客席がバラバラに競技場を取り巻いている。どうしてか聞いたら、競技に合わせて客席を作ったから結果的にこうなったと。そういう競技場が聖地だと聞いてすごく面白いと思いました。調べてみたら、今の陸上競技場は1896年の第1回近代オリンピック以降の形式なんです。せいぜい百数十年しか経っていない。その間になんとなく「陸上競技場はこういうもの」という形式ができて、今日まで来てしまった。でも設計するにあたって調べていくと、意外と「陸上競技場はこういうもの」と割り切れるものじゃないことがわかってきて。
国谷
面白いですね。「こういうもの」という固定観念がありますけれど、そうではないのですね。
国谷
この前は美術館そして今は競技場も設計されていますけれど、以前は用途を決められている空間の設計には抵抗を感じられていた。そして熊本県の馬見原橋(まみはらばし)がいわば原点になったと。「すべての建築は道から始まる」ともお書きになっています。それはどういうことなのでしょう?
青木
昔は井戸端会議ってあったでしょう。道の真ん中に井戸があって人が集まる。道で紙芝居をやったり、物を売ったり、道の上にチョークで絵を描いたり、けんけんとかで遊んだり。実は、道といわれている空間は移動経路というだけではなくて、いろんなことが起きる場所だったわけですよね。川のほとりの道に広いスペースがあるから小屋を作って、そこで演劇をやろうとか、芝居をやろうとか。
国谷
歌舞伎もそうですよね。四条河原の。
青木
まさに。河原に仮設を作ってやっていたのが、人気が出て固定化されていった。そういう意味でいえば、その後に劇場になったけれども元々は道だったということなんです。昔の道みたいな場所がまずあって、用途が分かれ固定化されていって形ができたと考えたほうが、多分自然だろうと。建築をもう1回そこからスタートしたらどうなるんだろうかと。馬見原橋は橋を作る仕事だったので、橋というのは交通経路だけど、それをそれだけじゃない空間にまで差し戻せないかなって。
馬見原橋は熊本県と宮崎県の間で山の中にあって、日向と肥後の間の山越えをするための街道にある橋なんです。だから人の往来があって、昔は栄えた宿場町だった。川があると、渡らないかぎり向こう側に行けません。だから橋を懸ける。橋って、道がそこで川をまたいだものに変異した、そういう特別な場所ととらえてみたんです。
宿場町にある橋はどういうところかなって調べてみたんですね。安藤(歌川)広重が浮世絵で描いた《東海道五十三次》には、53の宿場町に京都と東京を加えて全部で55の版画がある。それを1枚ずつ見ると、驚くことに半分ぐらいが橋の絵なんです。
国谷
そうなんですか。
青木
昔だから渡し船とか、人がかついで渡ることもありますが、そういうのも含めれば、橋の絵がほぼ半分。川まで来ると、「今日はここで泊まって、明日渡って行こうか」ということになる。それで橋があるところに宿場町が生まれる。その中にすごくいい絵があって、「掛川秋葉山遠望」では、橋を舞台にいろんな人が交差しています。お坊さんや町人が歩いてすれ違う。横には田んぼが広がってそこに百姓がいて、子どもが凧揚げしている。それぞれが違う意図と目的地を持って、ひとつの場所で出会っている。橋は、いろんな道が集まって橋のたもとができて、渡ってまた分かれてっていう、いろんな違う目的地を持った人が集まってまた別れる面白い場所です。橋がもともとそういう場所だったことをこの絵は教えてくれます。
だから、いろんな人がいろんな理由でやってきて、そこを通過したり、止まったり、交差する「川の上の道」として橋を作ったらいいのではないかって。それで橋の下側は太鼓橋をひっくり返したような感じの歩道にして。そこから釣りができるんですよ(笑)。渓谷にあるんだけど、上に車道があるから日陰ができるでしょう。雨が降っても濡れない。それから夏は風が通る。そういう意味ですごく居心地のいい場所になるわけです。でも、設計中、すごい反対があった。「もっと観光名所になるような目立つ橋にしてほしい」って。確かに目立つ橋じゃないんです。川岸のほうから見上げるとくちびるの形をしてることがわかるけど、普通に橋を渡る人はそっちから見ないでしょう。
国谷
美しい吊り橋かなんかにして欲しかったのでしょうね。
青木
そうですね。観光客が来てくれるようなモニュメントを作ってほしいと。「いやいや、そうじゃなくて、モニュメントよりシンボルであることの方が大切。シンボルっていうのは都会に出て行った人がお盆とか正月に帰ってきて、そこで『あ、帰ってきた』と感じる場所のこと。モニュメントには人は1回しか来てくれないけれど、そこを日常的に地元の人が使っていて、それが皆の心の中に残り続ければ、それを見に何回も来てくれる観光客もいるはず」と言ってなんとか許してもらった。
でも完成したら、すごく喜んでくれました。橋の開通式に行ったんですけど、数日前に着いたらもう使ってるんですよ(笑)。それで、「作ってくれてありがとう」って反対してた人たちから言われて。でも、「ただ、ひとつだけ直してほしい」と。「え? 直すってどこをですか」って聞いたら、「コンセントをつけてほしい」と(笑)。
国谷
そんなに長居するつもりですか(笑)。
青木
コンセントが無いとカラオケができない。
国谷
川原で歌うわけですか? 最高の誉め言葉! してやったりじゃないですか。
青木
最高の誉め言葉ですね。そこで毎晩宴会しているんですよ。すぐそばに焼鳥屋があるから、そこからロープウェーみたいなのをつなげて。
国谷
原始的なデリバリー(笑)。
青木
くぼんだ形だから座りやすいんだけど、椅子も無い。
国谷
でもいい風に吹かれますよね。
青木
「ベンチを作ればよかったですか?」って聞いてみたら、「いやそれは粋じゃない。ござを持って行ってそこで宴をやって、それを全部始末して帰るのがかっこいい」なんて言っていました。この橋は、僕が独立して仕事を始めてほとんど最初の仕事で、すごくうれしかった。「あ、これなんだ、建築って」と思いました。
国谷
それで、「すべての建築は道から進化した」と書かれたのですね。
青木
はい、特定の用途は何もなくていいんで、場所としていろんな人が行き交ってとどまれることができる、それで十分何か起きるだろうって仮説を立てたんですが、それがうまくいったんで、その経験から書いてみたんす。ところが、建築関係の人たちからは、もっとまじめにデザインしろと怒られた。つまり建築デザインの世界では、かっこいいものとか美しいもの、モニュメンタルなものを作ることがデザインだと思われていた。でも、自分は、そこにいていい気分になれるとか、居心地がいいとか、あるいは何かそこでやってみたいことが生まれるとか、日によって気分が違う時でも来たくなるとか、そういう場所を作ることに意味があると思っていて。自分はこの建築の世界で相当異端なんだってことがわかったんです。
国谷
個性を思いっきり見せたり、そういうデザイン性が重視されていますが、先生の個性は、用途や意図を強要しない空間作りですね。
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