クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。
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第十九回は、美術学部絵画科油画専攻の小林正人先生です。本学卒業後、画家として活動し、キュレーターのヤン?フート氏に招かれてベルギーのゲントで制作を行うなど、世界を舞台に活躍されてきました。2023年9月、取手校地の研究室にて作品を前にお話を伺いました。
【はじめに】
その日、取手のキャンパスは人気がなく、ヤギたちが日陰で静かに休んでいました。小林先生の研究室にむかう無機質な廊下には洗濯機がおかれ、不思議な生活感が漂っていましたが、研究室の扉を開けて一歩中に踏み入れると、床のそこかしこに絵の具のチューブや絵の具がついた白い布切れ、脱ぎ捨てられた片方の靴、ところどころに藁が敷かれ、とても近寄りがたい画家のプライベートな空間を前に私は思わず後ずさりしました。創作の熱気がこもったアトリエ。私は部屋の中央にぽつんと置かれた黒いソファに緊張しながら腰を下ろしました。なぜか汗が突然どっと流れだすなか対談を始めました。
小林
この絵は明日搬出してもらう予定だったから、ちょうど1日前。すごいラッキーです。
国谷
9月22日から「自由について」という個展が始まります。この馬の絵はどういう作品なのでしょう。そして、なぜアトリエに藁がいっぱいあるのですか?
小林
これは《画家の肖像》というタイトルなんだけど、この馬は画家なんです。筆をくわえている。あっちの人物の作品《この星のモデル(手袋を脱ぐカウガール)》はモデルを描いてる。ここは画家とモデルのための部屋っていうか。画家が馬なら、ここは馬小屋みたいなものだから藁。あとゲントの頃から藁っていうのは、動物が生まれたり、光が生まれる場所っていうか、そういうのがある。
「画家とモデル」というテーマがあるじゃないですか。俺は、モデルをただ座らせてポーズをとってもらって描くんじゃなくて、共同作業になっていく。画家が若い時は良かったんだよ。人間としてマッチョだったというか。それがそうもいかなくなったある時から、俺は馬になったの。画家が人間だと、モデルとの関係がうまくいかない。そのモデルとひとつになるために、いったん馬に変身してるって言うと変だけど、そういう過程があって(笑)。
国谷
藝大の絵画科は卒業前にみんな自画像を描きますけれど、その時はまだ馬ではなかったですよね。どんな自画像でしたか?
小林
自画像は普通の自画像だったよ。ペンキで色をつけて描いた。ただし、俺はまともな学生じゃなかったのかもしれない。俺は卒業制作で《天使=絵画》っていうのを100号のキャンバスに木炭だけで描いた。当時はインスタレーションという概念がなくて、卒業制作展の時はみんな都美館(東京都美術館)で普通に作品を陳列してたんだけど、俺の頭の中では天使は上の方にあって、自画像とは離れたところに展示したかった。だけどダメだと言われて、しょうがないから普通に横に並べた。そうしたら、もう全然、作品同士が殺し合ってしまって、「アチャー!」と思って、そばにあったハンマーで自画像をバコンってやった。うまくいったと思ったけど、その瞬間に助手が飛んできて、「何やってんだ!」って。その時絵を掛けていた壁を壊しちゃったんだよね。それで怒られて。
国谷
でもなぜ馬なのですか。
小林
それはなんでかわかんないね。一言では言えないけど理由は絶対あるはずだよ。それこそゲントの時はよく馬を見てたし、馬小屋でも制作した。俺は教会で生まれたから、キリストが馬小屋で生まれたこととか関係あるかもしれない。あと俺はキュリー夫人が好きだったんだけど、キュリー夫人がラジウムを発見したのがソルボンヌの元馬小屋だった。馬小屋は何かそういう光を生むような場所というか、そういうイメージがあったのかもしれない。
でも、鹿も猫も犬も嫌で、そういう嫌なものは嫌だと言える。馬は嫌じゃない。あと頭に馬の絵のイメージが浮かぶんだよね。それはただの馬じゃなくてやっぱり筆をくわえている。それは自分の、画家の化身の馬なんだ。でも馬といったって、俺の描く馬はしっぽなんか全然短い。馬のしっぽはシューってなってるもんだし、もっとたてがみとかあって、いわゆるスタリオンというかさ。俺のは“名もなき馬”なんだよ。鞍もないし何も身につけてない裸馬。だから、「自由について」っていうことに関係があるんだけど。
国谷
キャンバスが真ん中で分かれています。
小林
それは現実的な理由でね。4メートルぐらいのでっかい絵にしたかったんだけど、それを1枚布でやったらここから出ないし出たって運べない。つまり、絵って、それが社会的になる場合に、確実にその社会の枠の中でのことが生まれてくるわけ。好むと好まざると。でもだからといってそれで妥協したら最悪で。だから2つに切ろうと思ったんだよ。胴のところで真っ二つに縦に切って、展示会場でそれをひとつにする。だからここで馬が切れて中の木枠が見えたりしてもいいなと思って。ここら辺(端のほう)で切って、辻褄合わせて運べる大きさにするのは嫌だから、もうど真ん中で切ろうと。
国谷
藝大の陳列館で行われた展覧会「あなたのアートを誰に見せますか?」を拝見して、小林先生の「LOVEゼミ」の学生の展示もとても面白かったです。一番興味深かったのは、小林先生が、とにかく一番好きな誰か、見せたい人の方を向いて描くことが大切だと強調されていたことでした。
小林
俺が(教員として)藝大に入った年かな、学校で教えるのは初めてだったから、びっくりしたんだよ、学生に。悪い意味で!? 入学したばっかりで楽しくてしょうがないって感じでバンバン制作すると思ってたら、初めから悩んでて。何を描いたらいいかわからないとかどうしようとか、要するに暗いんだよ。課題みたいに何か理由がないと嫌なんだろうね。ああダメだと思った。そんなんじゃアーティストになれっこない。
国谷
湧き上がるものを感じないと。
小林
うん。だから、生きてようがなんだろうが、どこにいるのであれ、一番好きな人に絵を描いて、その人に絵を渡すってことをしてもいいんじゃないかと思って、それを始めた。絵をあげるだけじゃなくて、絵を包んだり箱に入れたり額を付けたり、パッケージも作る。パッケージを開けた時の驚きとかは、展覧会を作るのと同じようなことじゃないですか。どうやったらその絵を輝かせられるのかとか、ある種の魔法じゃないけど、そういうことなんだよね、俺が思う絵っていうのは。学生たちは言葉で説明してもらって理解しないと体が動かないみたいだけど、それじゃいけないと思うよ。ここ止まりというか。
つまり(未だ描いてない)自分の絵をイメージする力なんだよね。サッカー選手だって、自分のサッカーをイメージしてやらない限りはただのボール蹴り。すごいスピードで相手が来て、そこで焦ったら来たボールをただ蹴るだけになっちゃう。だからフィールドの中でプレーするのと同時に、空からゲーム全体を俯瞰する視点を持った上で、その瞬間に何ができるかという。答えの出ないところで何かをしなきゃいけないことばかりなんだよね。
あと学生を見てて思ったのは、「自分、自分」なんだよね。自分のことばかりに入り込んで堂々巡りっていうか。だからやっぱり外に向かったほうがいい。ターゲットはたくさんいるとぼんやりするから、まずひとりはっきりしたターゲットの人に向けて描く。そうしたら、その後ろには何万人っていう人が生まれてくる。そういうイメージかな。
国谷
小林先生の自伝小説『この星の絵の具』を読ませていただきました。
小林
『この星の絵の具』はフィクションじゃなくて全部本当の話。正確かどうかはわかんないけどね。
国谷
おじい様が教会の牧師さんで、天地創造のお話とか、幼い頃からそういうキリスト教が身近にある環境で大きくなった。でもアートとか創作とか、そういうことに関心があったのではなく、少年時代は『あしたのジョー』にとにかく熱中していた。その中で、アートの感性みたいなものはどうやって育まれたのでしょうか。絵を描くきっかけを与えてくれた高校の音楽の先生(せんせい)は、なぜ小林先生に絵を描いてみなさいって言ったのだろうと思いました。
小林
せんせいがなんで俺に絵を描いてみなさいと言ったか聞いたことがある。彼女は音楽の先生だったんだけど絵が好きだったから、生徒の作品とかを美術の先生に見せてもらっていて、ある時美術の教室に行ったら、生徒が描いた水彩画が積み重ねてあった。それを見ていた時に、「ああきれいだ」と思ったのが俺の描いた絵だっだんだって。だけど俺に言わせると、それは本当に買いかぶりっていうか。俺は風景を描けと言われて、面倒くさいから、屋上から見えるプールの水を描けば楽だなと思って、ブルーの絵の具だけで描いた。適当に水で溶いた絵の具をバシャバシャやっただけなんだよ。でもそれが良かったんだって。あとは、俺はその頃バイクに乗ってたんだけど、バイクの乗り方が、人の目を気にしてない。上手くなろうとしてるって。つまり真剣だったんじゃないかな。
あと…俺がヌードを描かせてくれって言った、せんせいの家に行った時のことなんだけど、本当に人間て変わるんだよね、一瞬にしてさ。
国谷
イーゼルを前に、「本当に何もできなかった」と書かれています。
小林
裸のせんせいを前に何も言えなかったし、何もできなかったんだけど、その瞬間から変わって俺は絵を描き始めていたんだよ。実際に描いてはいないけど、ちゃんと描こうとした。あとになって俺はせんせいに、俺が変わるってなんでわかったのかって聞いたら、「なんででしょうね」って、答えてくれなかった。それで死んじゃったけど。
国谷
すごくドラマティックなエピソードです。小林先生の中で人間が変わった瞬間というのはどんな感じだったのでしょうか。
小林
それは自分では実感していないよ(笑)。だけど、間違いなく変わっていた。今まで見たことがないようなきれいなものが目の前にあるのに、それが絵の具の色と全然つながらなくて、絵の具のチューブを開けてはせんせいを見て、また開けては見る、それを繰り返していた。でも、このキャンバスに眼で描こうとし始めたことはわかったし、実際に描く力がないこともわかった。だから俺がやろうとしたのは絵を描くことじゃなくて、ここにあるすごく美しいものをなんとかしてキャンバスに移そうって、そういう感覚かな。でもそのために絵の具を使って描く力がまだなくて。だからどうしたらいいんだって感じで。
国谷
かわいいですね。
小林
そのまま何時間か経ったんだけど、本当にすごいきれいな光でさ。きれいな空気というか。そう思ったのは初めてだった。それである瞬間に絶対描けないってわかって、「もう描けないから勘弁してくれ」って言ったら、キャンバスを見せてと言うんだよね。何も描いてないって言っても、いいから見せてって。じゃあはいって見せたら、「これが小林くんの最初の絵ね」って。その時は意味がわからなかったけど、後になって、ああすごいなと思って。
国谷
そこから絵を描きたいという気持ちが湧き上がってきたのですか?
小林
いや、まだならない。その頃から漠然と画集とかそういうのを見始めた。あの日せんせいの家で見た景色、見た何かがとにかく眼に焼き付いているわけ。で、これを画に描くとはどういうことか、そのために画家はどうするのか、そういうことを考え始めた。でも自分で描くところまではまだ行かなかったね。せんせいと恋人になったわけよ。だからもうそれに溺れたというか(笑)。
国谷
せんせいはその後、カナダのバンクーバーに引っ越してしまいます。
小林
つきあってることが学校バレて辞めさせられて、俺はそれに納得いかなくて、わざと退学になった。
国谷
自分だけおとがめがないのがおかしいと。それは高校2年か3年の時ですか?
小林
いやいや、俺は1年2年2年3年3年と留年してて、落第生だったんだよ。その2回目の3年で退学になった。だから親にしてみたら、本当にひどいよね。
国谷
それだけ高校に行かせているのに、最後まで全うできず退学になってしまった。その後、大検を取って藝大を目指します。
小林
大検は1発で受かったんだけど、俺はほとんど高校をさぼってたから12科目ぐらい受けなきゃいけなかった。お袋に言わせると、正人は畳に穴が空くくらい勉強していたって。飯食っている時から何からずっと。
藝大は2回目の受験で受かった。せんせいに、「本当に画家になりたいんだったら、藝大ぐらい入れなかったらなれるわけないわよ」みたいに言われて、それで藝大を目指した。おだてられると弱いから。
国谷
藝大に入るのは大変です。何をどうやって勉強したのですか?
小林
大検を取ったけど、まだ絵の勉強は全然してないわけ。それで藝大を受けるぞとなった時に、せんせいが紹介してくれた美術の予備校に行くことにしたんだよ。初めてそこで画材を買ってやりだした。それがもう秋、10月とかで、何か月後かに藝大の試験だった。だけど、絵を描き始めたら予備校の先生たちがどんどん俺に群がってきて、それでやたら褒められる。藝大を受けろ受けろって言われて。
プルシャンブルーという絵の具があるんだけど、当時それは使っちゃいけないって言われていたらしい。予備校的な見方では、藝大のアカデミックな試験では通用しないと。感覚的というか、カチっとしなくなるんじゃないかな。だけど俺はプルシャンブルーでばっかり描いてたんだよね。でも先生たちにもそれでいいと言われてさ。
で、藝大に試験を受けに行った。当時、油画の最初の試験は3日かけて描くという問題だったんだけど、1日目に周りを見ていたら全然俺がダメだというのがわかって、1日で試験をやめた。それで予備校もやめて、自分で家で勉強しようと思って、それから1年間は模写ばっかりやっていたね。それこそダ?ヴィンチとかのデッサンの模写と、あとは油絵もドラクロワとかゴヤとかラファエロとか。とにかく俺は自分には実力がないとわかった。つまりこうしたいというイメージはあるけど、それを実際に描く技術がない。だからまずそういうことができてる人たちの技術を盗むしかないなと思って。だからその1年間は自分の絵を描こうなんていう気持ちは毛頭ないわけよ。
国谷
技術をとにかく学ぼうとした。
小林
そうそう、描けるようになるためだけに。そのためには別に好きに描く必要はないから模写だけ。本当にそっくりに。それで二回目、次の年に受かった。それはもう絶対に合格すると思った。
国谷
藝大の油画の試験は、どちらかというと技術を求められる試験なのですか?
小林
もちろん上辺の技術は技術に過ぎないから、自分の絵っていうのも必要に決まっている。だけど、藝大とはいえ少なくとも大学の入学試験であって、まだプロじゃないわけ。だから自分の筆力が伝わるような、最低限度の技術があれば合格すると思ったよ。俺の時の二次のデッサンは、鏡と紙みたいなものが置いてあって、それを組み合わせて何か描きなさいっていう試験だったんだけど、俺は難しいことはもう抜きにして、紙をクシャーって丸めて手に持っている自画像を描いた。それはもう本当に一生懸命描いた。で、周りを見て「絶対に受かる」と思って、そして受かった。
国谷
独学で、お見事です。
小林
人それぞれのやり方があると思うけど、何をすれば自分がしたいことができるかということ。俺は藝大に入りたかったから藝大の入学試験に合格することがしたいことだったんだよね。だから試験の時に自分の画を描くとか、好きに描くつもりは全くなかった。そんなことは後でやればいいというか。
国谷
割り切っていたのですね。
小林
どうかなあ?…そう思われていないだけで、俺のあらゆることがそうだよ。自分を全面に出した絵を描いて入ったと思われるけど、自分の絵が描けるのは実力があってのことだから。言っちゃ悪いけど、こういうの(《画家の肖像》)は実力があるから描けるんだよ。
例えば、俺が初めて料理を作ったことがある。奥さんの誕生日にイカ墨のリゾットを作った。俺は料理なんか全然作らないから、塩梅とかいろんなことがわからない、実力もない。だから雑誌を見てさ。一番丁寧に解説しているのを本屋さんで探して。奥さんはあんまり期待してなかったけど、できたのは雑誌の写真と寸分たがわないイカ墨のリゾット。びっくりしてたよ。つまり実力がないから自分流にやる気は全くないんだよ。自分流にするのはその後で、もっとうまくなってから。最初は真似から入るというか、最初から自分を表現しようなんて考えるタイプじゃないよ。
小学校の頃、「書き方」という授業があったんだよ。習字じゃなくて鉛筆で字を書く。俺は先生に呼ばれて怒られたんだよね。「おまえ何を写してるんだ。ふざけんな」って、お手本を上からなぞって写したと思われたんだ、あまりにそっくりだったから。模写と同じで、自分流のいい字を書こうとか思うタイプじゃなかったんだね、その頃にして。
小林
小学校の5、6年ぐらいの時、俺はキュリー夫人に出会って、その時も変わった。毎日、担任の先生が日記みたいなのを書かせたんだけど、俺は毎日『あしたのジョー』のことしか書いてなかった。クロスカウンターの打ち方とか。そしたら先生がある時、『あしたのジョー』はもういいから別のことを書きなさいって。世の中には立派な人がたくさんいるから、図書館に行ってそういう人たちの伝記を読めと言われて、しかたないから初めて図書館に行った。偉人伝のところを見たら、シュヴァイツァーとか野口英世とかいろいろな子ども用の伝記があるじゃない? その中にキュリー夫人があってさ、「あ、きゅうり!」という感じで、面白いからこれにしようと思って読んだ。
そしたらその日1日で俺は変わった。本当に子どもの読み方なんだけど、キュリー夫人という人が鍵をなくして探していたんだ。そうしたら鍵は見つかったんだけど、棚のところに石が置いてあって、その下に紙があって、石と紙の間に鍵があった。で、その下の紙に鍵の形が焼き付いていたんだよ。太陽の光が入らない真っ暗な部屋で。
国谷
投影されていた。
小林
光源はないからエネルギー源は石にしかあり得ない。ということは、この石にすごいエネルギーのあるものが含まれていると。それが瀝青ウラン鉱という石だった。石から原子を取り除いていって、最後に残ったものがエネルギー源だという仮説を立てて探し始めるんだけど、出てこないんだよ。ある種の結晶を持ったものとか何かの粒とか粉とか、そういうものを想像しているから、「無い、失敗した」と思ってビーカーを洗っちゃうんだ。本当はそこにあるのに目に見えないから。それがある時に、もしかしたらと思って、旦那さんのピエールと一緒に実験室に見に行ったら、暗い中でウランが光っていた。
その時の俺のキュリー夫人に対するイメージは、ものすごくきれいな人で、気持ちもきれいな人。だから俺はそのくだりまで読んで、こんなにきれいな人でさえ、先入観を持って見たら見えないものが、この世の中には満ちていると思った。だから俺は100ぺんぐらい眼を洗わないとダメだと思って、その日の夜から夜空で眼を洗うようになったんだ。
国谷
頭の中にある先入観を洗い流したいと。
小林
あるがままを見る眼というか、素直に見ることができる眼というか、それを作りたくて。そういう眼で見たら、あるがままのものは素晴らしいはずなんだと思って。キュリー夫人にものすごく感動して本当に心酔したんだけど、だからと言って、科学者になりたいとか物理学者になりたいとかは思わなかった。ただそういう眼が欲しかった。でも今になってみれば、やっぱり全部、絵の話っていうか、アートの話としてつながってくる。
国谷
眼の話でお聞きしたかったことがあります。『この星の絵の具』の中で、2001年にイタリアからゲントに戻ってきた時に、「心に眼が戻ってきた」と書かれています。本当に素敵な表現ですが、もう少し具体的に言うと?
小林
イタリアというのは絵を描く環境じゃないという感じだった。生活というか人生というか、あらゆることが素晴らしすぎて。イタリアは光が溢れすぎているんだよ。物理的にも。光って、当てればモノがはっきり見えるわけじゃなくて、むしろモノを飛ばしちゃうというか。はっきり見えるのは間接光だったり。そういう意味でイタリアは、落ち着いて仕事をする場所じゃないと(笑)。
国谷
あまりにも楽しいことがいっぱいあるから。
小林
光も美しいし、歌だのなんだのそういう楽しいことがね。それがゲントに戻った時に感じたのは、やっぱりゲント、フランドル地方…オランダもそうだけど、絵を見るための光というか、絵がはっきり見える光なんだよね。イタリアで恋のように熱くなっていた心が冷めて、冷静になって客観的な視点が戻ってきたというか。イタリアは人生の光でゲントは絵を描くための光みたいな、そういうイメージかな。それぞれの国で、例えば哲学するための光だったり暗さだったり、そういう適している感じがあるじゃないですか。そういうことだと思う。
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