受賞記念講演
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私と民族音樂學——我が学術人生のなかの二回の「背叛」行為
沈洽
中國音樂學院教授(北京)
翻訳?代読:山口修(大阪大学名誉教授)
2011年6月23日(東京)
百年あまり前の1902年、私の祖父の長兄にあたる沈心工(1870-1947)1という人がここ東京の牛込区にあった弘文學院2で清國からの留学生として勉学に励んでいました。彼は母國がより強い國となるための道を探っていたのです。彼が選んだ道は「革命」ではなく「教育」でした。國を救うためには、人びとを幼少時代から教育することこそが必要だと考えたのです。すぐに彼は日本の學校唱歌に着目して、のちに中国で「學堂樂歌」と呼ばれるようになったジャンルを手掛けました。この新しい様式の音樂こそが人びとの心を覚醒させ近代科学や民主思想の精神を植え付けることができると考えたのです。東京在住の清國留學生たちのための「音樂講習會」を発足し、高等師範學校附属學校の鈴木米次郎3から音樂教育の指導を受けました。沈心工は、翌年上海にもどるやすぐに積極的に「學堂樂歌」普及活動に着手しました。それはまさに、中國における西洋音樂啓蒙運動のひとつでした。その後の彼の貢献も考え合わせれば、20世紀前半に拡大し影響力を深めた中國近代音樂史全体のなかでも第一人者と言えるでしょう。
約半世紀ほど時代が下って1958年に私は高校卒業後に、上海音樂學院にその2年ほど前に設立されたばかりの「民族音樂理論」を専攻する学生として入學しました。これは中國傳統音樂の理論のための課程で、著名な音樂學者の王光祁4が言うところの「崑崙山の頂で黃鐘の笛を奏でる」こと,すなわち、西洋音樂中心の風潮が増大する世界にあって中國民族の音樂に對等の位置をもたらすことを目的としていました。後になって私を批判する声が聞かれました。沈洽は自分の祖父ともいえる沈心工が西洋音樂の普及に努力していたことに對して「背叛」したのだ、と。この批判にはいくらかの道理があると當初の私は感じていましたし、申し訳ないという気持ちもありました。しかし1984年に私の叔父が教えてくれたのです。沈心工は五十歳くらいのときに「歸鶴軒記」という題名の覚書を記していた、と。その内容は、自分が若かった頃は西洋音樂に情熱を傾けるあまり自民族の傳統音樂をないがしろにしてしまったことを嘆いたものでした。残念なことに、この手稿は文化大革命のさなかで紅衛兵たちに消されてしまいました。しかし彼が晩年に傳統音樂の復興に努めていたことを証明する手記を多数発見できたのは幸いでした。叔父が言っていたことは事実だったのです。たとえば、彼は古琴の学問と演奏に関わる“今虞琴社”5という同好会に参与していました。この伝統樂器が健全なるかたちで発展することを願って、弦の張り方を工夫したり、琴歌を復元したりしていたのです。高齢と健康上の理由でこの方面での仕事は続きませんでした。私にしてみれば、彼がやりたかった事柄を学術方面で引き継いだかたちになっていると自負しています。けっして「背叛」ではなかったのです。
私の第二の「背叛」は1977年の秋から冬にかけて始まりました。当時の中國は,悪夢のような文化大革命という「十年動亂」が終息を迎えたばかりでした。私が身をささげていた「民族音樂理論」も廢墟と化していたのです。この分野の仲間たちは廢墟から立ち上がって自分たちの學術的拠り所をどのように復興させるべきかあがいていました。そのような時期に私は十年以上も会っていなかった旧友の羅傳開と再會することができました。別れのときに彼は一束の未出版翻譯原稿をくださいました。彼と仲間たちが作業を終えたばかりの原稿は、中國が苦しんでいた時期の歐米や日本の民族音樂學や關連諸學の發展動態に関するものでした。なかでも山口修の文章が私に多くのことを教えてくれました。私たちが従事していた民族音樂理論と比較してみて,中國人にとって新鮮な視野が付け加えられると感じました。たとえば、音樂と文化の關係を廣い視野に立って考えること,あるいは、文化價值觀を西洋の「正統」的な音樂學との關係で問題にすること、歐洲音樂中心論的な態度には問題があること、といった考え方はすべて中國の「民族音樂理論」のなかに借用できるのです。このように考えた私は、眼前に一筋の光を見たように感じたものです。私がすべきことは、以前にやっていた「民族音樂理論」をそのまま再建するのではなく、いわば台木である「民族音樂理論」に接ぎ木をするように「民族音樂學」を導入してこそ、中國人にとって自分たちの新しい「民族音樂學」理論が構築できるに違いないと考えました。このような態度をとっていた私を見て、仲間たちは「民族音樂理論」や恩師于會泳6に対する「背叛」行為だと批判したのです。
しかし今回の私は、なんら罪悪感はもっていませんでした。なぜなら、「民族音樂學」的な視野を「民族音樂理論」に導入し、研究方法を拡大するだけのことでしたから。私がとった行為はけっして「背叛」ではなく,私の恩人である故于會泳が果たせなかった願いをかなえるべく受け継ぐものであると信じています。
その当時から現在までの三十年余のあいだに私は血気盛んな若者から白髪の老人に変身しましたが、民族音樂學に対する純真な理想論や執拗な主張は常に私の人生の一部であり続けてきました。民族音樂學の発展のために尽力を惜しまなかった人生を通して時にはプレッシャーを感じることもありはしましたが、なんら不満も後悔もありません。中國人民族音樂學者たちがおよそ二世代にわたる努力を積み重ねた結果、この分野はいまや國土の半分を占めるほどになったと人は言います7。もちろん、冷静に考えるなら、「民族音樂理論」と「正統」な音樂學をいかに並列させるべきか、あるいは「歐洲中心」論の影響をいかに克服すべきか、そして「音樂」と「文化」の関係を方法論的にいかに結びつけるべきかといった問題を解決するためには、中國人の民族音樂學者の前途には長い道があると言わざるを得ません。
私が見る限りにおいては、あなた方のお國でも日本傳統音樂研究と民族音樂學のあいだや、「民族音樂學」と<西洋の學門に裏付けられたいわゆる「音樂史學」とのあいだに、そして西洋音樂に対する「民族音樂學」的研究といった新しい潮流>8のなかに、中國の場合と類似した傾向をみてとることができます。もちろん、こうした問題については中國よりもよいかたちで日本の研究は進んでいると言えます。このたび小泉文夫音楽賞という栄誉ある賞をいただくことになったのも、そのような傾向の表れだと言えるでしょう。私の小さな学術貢献がこのように評価されるとは思ってもおりませんでしたので、驚きとともに大きな満足感を感じている次第です。ありがとうございました。
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1 沈心工(1870-1947):本名慶鴻、字名叔逵、心工は筆名。上海出身の中國音樂教育家,中國“學堂樂歌”運動創始者。近代の普通學校音樂教育の最も早い時期に音樂教師となり、中國近代音樂史上の第一人者となった。生涯のあいだに作った曲は180餘り。
2 弘文書院とも。初めは亦樂書院と称していた。日本の教育家で柔道の創始者だった神戸生まれの嘉納治五郎(1860-1938)が、清国留學生のために創立した學校。弘の字が乾隆帝の諱(いみな)であったので、後に「宏文書院」と改めた。ここで学んでいたのは陳天華、黃興、楊度、胡漢民、牛保才、楊昌濟、朱劍凡、胡元倓、李琴湘、方鼎英、許壽裳、魯迅、陳幼雲、陳師曾、陳寅恪、劉勳麟、鮑貴藻、李四光、侯鴻鑒、鄭菊如、李書城、林伯渠、鄧以蟄等。
3 鈴木米次郎 (1868-1940): 明治から昭和初期にかけての音樂教育家。東京音樂學校(現東京藝術大學)卒業。東京高等師範教師。1908年東洋音樂學校(現東京音樂大學)創立、校長。著作『樂典大要』等。
4 王光祁(1891-1936): 音樂學者、社會活動家。中國比較音樂學の第一人者,字潤璵,筆名若愚,四川成都溫江出身。1920年ドイツ留學、政治經濟學専攻,1923年に音樂専攻に変更。1927年ベルリン大學音樂學専攻,C. シュトゥンプ、E. M. フォン?ホルンボステル等に師事。1934年『論中國古典歌劇』によりボン大學博士學位取得。主要著作に『中國音樂史』(1921)、『歐洲音樂進化論』(1923)、『東西樂制之研究』(1926)、『東方民族之音樂』(1929)、『論中國古典歌劇』(1934)。
5 今虞琴社:1936年3月,著名な古琴學者?演奏家の查夷平、彭庆寿、徐元白、庄剑丞、樊少云等により蘇州にて、琴樂研究の促進?発展を目的として創立された。
6 于會泳 (1925-1977): 著名な音樂理論家,作曲家。山東乳山出身。上海音樂學院民族音樂理論系副主任や中國人民共和國文化部部長等職を歴任。1965年以来、積極的に京劇現代戲音樂創作にあたり,《海港》、《智取威虎山》、《龍江頌》、《杜鵑山》、《磐石灣》、《審椅子》等を創作。代表性學術論著有《民族民間音樂腔詞關係研究》(1964)等。
7 引用《人民音樂》2010年第五期“編者按語”。
8 引用山口修《出自積淤的水中——以貝勞音樂文化為實例的音樂學新論》(中國社會科學出版社1999)。
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