クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。
第三回は、大学院映像研究科アニメーション専攻教授であり、先日、紫綬褒章を受章された山村浩二先生。平成 31 年4月、山村先生のアトリエにてお話を伺いました。
最寄りの駅から徒歩でおよそ10分、山村浩二先生のアトリエは静かな住宅地の中にありました。
週末は公開しているという一階には世界各国の短編アニメーション作家のプリントが壁を飾っています。目的の先生のアトリエは2階。大きな細長い机が置かれ、その上には創作に使っている絵具や小さなお皿、筆、マーカー、鉛筆などがきれいに並べられていました。
机の横の本棚には国内外の絵本や画集、標本、いかにも古そうな革表紙の外国の本に加え、ヨーロッパの蚤の市で見つけてきたのか小さな置き時計がいくつも並んでいました。創作中だという短編アニメーションの主人公が先生の背後の壁からこちらを見ている中、4月下旬の昼下がり、机を挟んで先生と向き合いました。
国谷
アトリエにお邪魔するので、何人かアシスタントが一緒に作業しているのかなと思っていたのですが、アニメーション制作はお1人でされているのですか?
山村
基本的にほぼ1人です。手で描いた絵をスキャンしたり、デジタルでの調整などは、妻が長年手伝っています。また、プロジェクトによってはアシスタントを1人か2人お願いすることもありますが、絵に関しては基本的に自分で描いて、合成、編集も自分で行います。
国谷
今、何作ぐらい構想をお持ちですか?
山村
アニメーションの構想は2本で、1本は完成しそうな状態です。たいてい2~3本平行して作業を少しずつ進めています。
国谷
先生の作品はショートフィルムがメインですね。
山村
そうですね。10分前後が多いですね。最新作「ゆめみのえ」も丁度10分です。いま取り掛かっている作品は長くなりそうで30~60分ほどになりそうです。
国谷
実写の世界と違い、アニメーションはゼロから世界を作り上げる必要がありますが、最初に頭に浮かぶものはなんなのでしょうか。キャラクターなのか、物語なのか。
山村
最初にイメージするものが何かといえば、シーンですね。状況やキャラクターも含め、世界全体がなんとなく頭に浮かんできます。
国谷
先生の代表作である「頭山」の場合は落語が原作です。落語は言葉だけですから、絵も音もすべてオリジナルになりますよね。
山村
原作の「あたま山」を知ったのは10歳の頃です。子ども向けの落語の本で読んで、ストーリーが頭に残っていたんですね。30歳半ばになってから、漠然と巨大な頭が画面いっぱいにあるイメージが浮かんできたんです。これは子どもの頃に読んだ話だなと。そこから具体的に読み直してみようかなと、子どものときに読んだバージョンを図書館に探しに行くところから始まりました。
元々は古典落語なので、登場人物は江戸時代の人たちになるんですが、それを現代の自分自身に引きつけて描きたかったので、舞台設定を現代の東京にして、登場人物も現代の人にしています。
一番やりたかったのは、オチで自分の頭の中に飛び込んで死んでしまうところです(笑)。落語の場合は文章で表現されていますが、そのシーンをアニメーションで創造しようとすると、自分の頭にどうやって飛び込むのかはビジュアルになりづらいですよね。
国谷
最後のシーンは、最初は状況がわからなかったですね。水に映った自分が繰り返し描かれて、自分の頭に飛び込む表現をされています。
山村
自己言及を繰り返すイメージですね。自分自身を自分で認識しようとすると、時間の複数性による無限後退に入り込んでしまう。「自分を考えている自分を考えている自分…」そんな状況が、「頭山」のオチから想像されて、自分自身の存在の理解の限界を考えたアニメーションができるのではというところから始まった作品です。
落語のオチでは「最後に池ができてうるさくなってきたんで、男は逃げ出して自分の頭の中に飛び込んで死んでしまった」と1行で終わっています。その部分を、最後の2、3分のシークエンスで表現しています。
国谷
先生の作品は、子ども向けのものと大人向けのものとではちょっと違うテイストですよね。大人向けのものは何回も見ないと理解できないというか。
山村
ちょっと考えてしまうようなものが多いかもしれません。ショートフィルムは何回も繰り返し見やすいので、1回目で理解してもらえなくても、どこか心に引っかかるところがあればいいのではないかと。散文的な丁寧な説明やわかりやすさは省略しています。短い文章を何度も読み込むと、深いところが見えてくることはあると思います。短編アニメーションも同じです。
国谷
今、世の中はわかりやすさが重要視されていますよね。テレビなんか特にそうですが。イエスかノーか、うけるかうけないかといったシンプルなものが多くなっています。そういうシンプルさに慣れて違和感を持たない人々が、先生の作品をご覧になったとしたら、きっと戸惑うだろうなと思います。私は報道の世界にいた頃は、あえて視聴者の心にざらつきを残すことを大事にしてきたので、ちょっと似ているかなと感じていて。
山村
社会に起こっていることは、わからないことだらけですよね。なので、僕らのような芸術分野を扱っている者が、人間が言葉や論理で理解できない部分、中間的な部分を担っていくのかなと思っています。生きている中での不条理なこと、人間の精神状態や思考のカオスを映像で表現しようとしています。
人間の心の奥底には、社会的なモラルや模範的な考え方からはどうしても外れてしまうけれど、自分自身もよくわからないものが絶対眠っているはずなんです。そういうものは今の社会では表に出しづらいのですが、そのカオスこそ人類の進化の原動力になっていると思うんです。僕はそこを意識して、そういうところを刺激できるものができればいいかなと。ただ、理解しづらいものなので、ポピュラーにはなりづらいのは宿命かなと思っていますけど。
国谷
先生の作品は、人間の抗いがたい欲望を、ユーモラスに、少しブラックユーモアで包んで描いてらっしゃると思います。大げさな言い方をすると、人間の原始的な部分をくすぐる感じがします。
山村
それは意識しています。1990年代は子ども向けの作品を多く作っていました。その頃、NHKで放送したものがいくつかありますが、「意味がわからない」とか「子どもが泣くから放送を止めてほしい」というご意見をいただくこともありました(笑)。ただ、そういうクレームが来ても、ストップはかからなかったんです。その頃のNHKは寛大だったなと思います。
国谷
受け止める側にも、もっと懐の深さがあったんですね。子どもたちはおもしろがっていたんじゃないでしょうか。
山村
色々な意味で印象に残っていたようです。僕は10代の頃に「あたま山」を読んで、どうして自分の頭の上に飛び込むことができるのか理解できなかった。その不可解な引っかかりが考えるきっかけになっています。なので、子どもたちにある種トラウマになるくらいの刺激があってもいいのかなと思っています。
山村
映像というのは、すごく想像力をかき立てるものです。テレビのフレームのなかに写る世界以上のものは目には見えませんが、僕はその外側にもっと違う世界が広がっていると想像する子どもでした。それもあり、世界が今見えている「窓」だけではないというところは、子ども向けのアニメーションを作っているときは念頭に置いていました。
国谷
今先生がおっしゃったことは、私が報道で取り組んでいたときに一番ジレンマを感じていたことに通じています。映像の力はものすごく強いので、テレビで放送されたことがすべてだと視聴者は思ってしまいます。映像になっている部分は本当にごく一部で、写っていないところに真実がたくさんあることをなんとか認識してもらいたいと思っていました。
それもあり「クローズアップ現代」では映像パートのほかに、スタジオでゲストの先生とトークをするパートを設けて、そこで見えていない部分を補足する構図でやってきました。
アニメーションを制作する過程の中で、最初から映像以外の部分も折り込んで作るのはものすごく難しいだろうなと。しかもセリフがほとんどない状態でやるのは、どれほど困難な作業なのかと。
山村
アニメーションの場合、絵も?もゼロから創作が出発しますし、可能性は無限にあります。フレームの外側を意識しつつ、描かないことで語れることもあると思いま
す。
国谷
コンピュータを使わないのですか?
山村
絵を描く段階では、ほとんど使わないですね。合成など仕上げの作業には使用していますが、元になる絵は全部手で描いています。
国谷
二次元のアニメーションに奥行きを作っていくことにこだわっていらっしゃいますね。
山村
奥行きを感じさせることで、より複雑にいろいろなものが読み取れる作品を作りたいという傾向があります。よく「作品のテーマは何ですか?」とインタビューなどで聞かれることがあるのですが、自分ではわからないんですよ(笑)。自分自身が強いモチベーションを持って作品を作り始める部分は、あとで説明しようと思ってもうまく言えないんです。漠然とした何かまったくわからない部分と、これだという確信のような部分とがあって、両方がうまく一致したときに作り始める感じですね。作品を完成させて10年くらいたって、やっとやりたかったことがなんとなくわかるという。
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