クローズアップ藝大では、国谷裕子理事による教授たちへのインタビューを通じ、藝大をより深く掘り下げていきます。東京藝大の唯一無二を知り、読者とともに様々にそれぞれに思いを巡らすジャーナリズム。月に一回のペースでお届けします。
第七回は、大学院国際芸術創造研究科長で、同大学院と音楽学部音楽環境創造科でアートマネジメントの人材を育成する熊倉純子先生。学生と供にアートプロジェクトの企画?実践を行い、芸術と市民社会の関わり方を模索しています。令和元年10月、プロジェクトの一環として公開されている「仲町の家」にてお話を伺いました。
【はじめに】
熊倉先生の拠点となっている千住キャンパスは北千住駅から歩いて5分弱。駅周辺の曲がりくねった細い路地には古い小さな家屋を改築した魅力的なレストランやカフェが点在しています。以前は小学校だった校舎を改修?増築して、体育館は演劇やダンスもできるホールとして生まれ変わっています。
最近、芸術の力を使って地域の活性化やアートを通して様々な分野の人々をつなげてイノベーションを模索する動きなどが活発になっています。芸術と社会をつなぐ、アートマネジメントの世界が広がっていますが、大学で美術史を学んでいた熊倉先生はどのようにアートマネジメントの世界に出会いこの新しい分野の専門家になったのか。また芸術と社会をつないでいくとは具体的にどのような仕事なのか知りたいと思いました。
国谷
いつもお目にかかる時は会議ばかりで、本業についてお話を伺うこともなかったのですが、「アートマネジメント」を教えていらっしゃるんですよね?
熊倉
はい。音楽学部音楽環境創造科と大学院国際芸術創造研究科で授業をしています。2016年からは大学院国際芸術創造研究科に所属していますが、この研究科ができるより前に音楽環境創造科に赴任しました。学部の中では新しい、といっても2002年に新設されたので18年経ちましたね。最初は取手に置かれたんですけれど、取手は全くスタジオとか音が出せる設備がありませんでした。その後、足立区が提供してくださって千住に移転しました。
音楽環境創造科は作曲をする先生もいれば録音とか音響のことを教える先生もいますし、私は芸術と社会の関係を、実際に文化事業を起こすことによって考える。毛利嘉孝先生は社会学者なので、自分たちで文化イベントを起こすというより、もうちょっと社会学寄りの視点で、現代思想もからめてアプローチをするとか。非常に領域横断的な学科です。
校舎は足立区に建てていただきました。
国谷
区民から来てほしいという強い要望があったんですね。
熊倉
ありがたいですね。
今、北千住はいろんな路線が入ってきてとっても便利になって、マンションもできて新しく越してくる人が増えました。町に愛着を持ってほしい、新しく来た人と、古くからの人情味溢れる下町が出会える、新しい縁を作れるようにと願って、「音まち(アートアクセスあだち 音まち千住の縁)」というのを2011年に立ち上げました。我々も町の中にご縁ができて、この対談場所である「仲町(なかちょう)の家」のように、希有な文化財的な意味のある建物を地元の方から貸していただいたりしてます。
文化サロンとして定期的に公開されている「仲町の家」
国谷
「音まち」は熊倉先生が携わったプロジェクトですね。
熊倉
はい。私の専門は文化事業の中でも、美術館で展覧会を開くとかコンサートホールでコンサートをするのではなくて、そういう文化施設とはちょっと縁遠いかなと思っていらっしゃる一般の市民の方々の日常生活の近くに、いろんな形で寄り添うような芸術のあり方を、実践から模索していこうというものです。
国谷
藝大にあるアートマネジメント専攻と聞いて、音楽や美術の学生が卒業後にアーティストとして活動できるように、マネジメントする人材を育てる学科かと思っていましたが、今お話を伺っていると、もっともっと広い。もっと地域性を持った社会性のあるものですね。
熊倉
アートマネジメントっていうのはアーティストと社会をつなぐものなんです。一般社会の中には、つなげる人がいないと案外出会えない人たちがいる。芸術って聞いただけで、「私なんて」って尻込みしてしまう。「敷居が高い」とか「芸術には縁遠くて」って。
国谷
みんな自信がなくて、畏れ多いと思ってしまう。
熊倉
アーティストの方も、いいものをやっていれば誰かに必ず伝わると思っている。それは間違ってはいないけれど、難しい。でも、そういうものの面白がり方がわかると、知識や教養がない人でも、作品に対して感想を持ったり、非常に正確な批評をしたりするようになります。そういう瞬間を目の当たりにして、つくづく、「芸術は万人のものである」って感じます。
国谷
アートマネジメントの仕事は、いろいろな方に柔軟に対応しなければならないと思います。何か信念を持ってらっしゃらないと、大変な交渉も乗り越えられなかったのではないでしょうか?
熊倉
無駄な信念ですが、「ラスコー洞窟の壁画の時代から、衣食住足りなくても人間に芸術は必要」っていう信念だけはありましたね。証明のしようがないんだけれども。
交渉といえば、大巻伸嗣先生(美術学部教授)とのシャボン玉のアート(Memorial Rebirth 千住)にしても、足立区と何度喧嘩したことか(笑)。地元の方のお叱りもしょっちゅうで。クレームも聞きましたね。論破なんてできないので、呑み友達になってご意見を聞きます。
国谷
今の話で思い出したんですが、元国連特使のブラヒミ氏という紛争地域で反目をする両者の間で調停を行う方がいらっしゃいました。そのブラヒミさんに、どうやったら調停ができるんですかって尋ねたら、僕はただ聞いてるだけですって。自分で解決策を思いついたと当事者が思わないと、実行してもらえないから、僕はただ聞いてるだけだと。熊倉さんと同じですね。
熊倉
芸術論を押しつけるのでは駄目なので、ひたすら聞いて聞いて、ですね。そうすると次第に地元の方が「大巻先生はアートを作るのかもしれないけれども、俺たちは人の輪を作る」と言い始める。以前、私が話したことだったような気もするけど、それを自ら体験し納得して話し出す。それが嬉しい(笑)。アーティストも同じかもしれません。
だから学生にも言っているんです。あなたと相談したことを、アーティストが自分の言葉で話し出したら、それが最高の成功。そこで、「それは私が言ったことです」って出しゃばっては駄目ですって。この仕事は、裏方に徹することも必要だと。
国谷
どんな授業をなさっているのですか?
熊倉
私が関わっている街の中でのアートプロジェクトの現場で、まず体験をしてもらいます。そういうのが授業。水泳は教室の黒板じゃ教えられないですよね。アートマネジメントも実践を伴ってこそなので、まず一緒に海に入って、泳ぎ方を覚えて、現場の人の迷惑にならないように。溺れそうになったら引き上げますけどね。
国谷
成功体験を積まないと、やっぱりね。
熊倉
卒業生も授業に参加していて、先輩たちは若手のスタッフとして、在学生たちの文句を汲みつつ一緒に体験して受け止める。私はこう思っていたのに実際は違うとか、そういうモヤモヤを言語化して、それはこういうことが下敷きにあるんじゃないかな、という話をちょっとずつしていきます。そしてその体験と言語化を繰り返していく中で、自分なりに見つけた問題意識を最終的に論文などの形にしていく。あるいは、もうちょっと難しい本を引きながら自分なりの芸術と社会の関係のありようを理論化し、分析して論文でまとめるということもあります。
国谷
熊倉さんは慶応義塾大学で仏文学と美術史を学んでその後パリに行かれましたが、こういう仕事に就くと思ってましたか?
熊倉
全く思ってませんね。その当時はこの職業すらなかったと思いますし。たまたま色々な出会いがあって、気付いたらこういう風になっていたんです。
大学では最初は仏文学を専攻して、辞書を引きながら割と新しい小説なんかを読んでいました。辞書ばっかり引いてると寂しくなるじゃないですか。それで、「外に出たい!」って、卒業後に学士入学で入り直して美術史を勉強しました。文学もそうですし、美術を見たり音楽を聴いたりするのも子どもの頃からすごく好きだったので、「そういうことに携わりたいな」と思っていました。批評家になるとか展覧会を作るとか。キュレーターという仕事もありましたから、漠然とオークションハウスとかで働くのかなってイメージはありました。
日本の大学では現代美術の研究はあまり盛んではなかったのですが、フランスに行ったらちゃんと現代美術を大学でも教えてる。どんどん専門的に学べる。そこで現代美術に興味が湧くようになっていきました。
国谷
その頃は、日本ではバブルの時代ですよね? ルノワールやゴッホを買い漁った時代ですね。あちらではどうでしたか?
熊倉
もう、何回ルイ?ヴィトンの本店に行ったか。知り合いの知り合いみたいな日本人観光客を案内するんです。そういうブランド品を買い漁ることは、フランス人から冷ややかな目で見られていましたね。「母国は大丈夫だろうか」という不安はありました。
1984年から90年までフランスに6年いました。朝日新聞のパリ支局で週末にアルバイトをしていたこともあります。テレックスから四六時中打ち出されて来る原稿をチェックして、何か重大ニュースがあったら支局員に報告して。新聞、週刊誌は読み放題でしたね。そうしている間に、後に自分が関わることになる公益社団法人企業メセナ協議会が日本に設立されました。
国谷
企業メセナは大ブームでしたね。
熊倉
パリ時代におぼろげながら知りました。帰国した翌年、1991年4月に母校の慶応義塾大学文学部に「アートマネジメント講座(科目)」というのが、日本で初めて正式な科目として開設されました。何百人もの社会人が殺到してきて大変だったそうです。その第1回目の授業でお話されたのが企業メセナ協議会の方で、芸術を知ってて、かつ語学ができる人材を探していたので、私は右も左も分からない中でアルバイトを始めました。
国谷
では、留学から帰国する時は何かポジションがあって帰ったわけではなかったんですね。
熊倉
はい。指導教員がもうすぐ定年だから、やり残していた修士論文を出そうと思って帰って来ました。30歳ぐらいの時ですね。
国谷
そもそも「メセナ」ってどういう意味を持つ言葉なのですか?
熊倉
メセナは、フランス語で「芸術支援」を指す言葉で、元々はローマ時代に起源がある言葉です。メディチ家が芸術家を擁護したというような。フランスでは、政府が行うことはメセナと言わず、民間が行う芸術支援をメセナと呼んでいます。
メセナの仕事に携わるようになった頃にバブルがはじけて、なんで企業が芸術支援なんてしなければいけないのかって、企業内部からも説明責任を求められるようになり、潮が引くようにお金がなくなっていきました。
もともと長い伝統文化のある日本なのに、芸術っていうものが市民生活の中でアップデートされていないということを、その時痛感しましたね。日本は、社会が芸術を支援しなければいけないっていう論理がすっごく脆弱だと。日本の企業で文化支援をしているところはありますが、残念ながら「社長の道楽」と言われたり、「衣食住が満ち足りて行うもの」、 あるいは「女、子どもがやるもの」というようなイメージがあって。
国谷
フランスと日本とでは、文化政策の位置付けが全く違っていた。
熊倉
当時はミッテラン政権だったので、国を挙げて文化を支援するということが当たり前だったんですね。そんなフランスから帰ってみると、日本は公的文化支援や社会が文化を守っていくという責任に関して認識がとても弱い、そう感じました。
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