高校生だったある日、新宿のデパートのオーディオ売り場で偶然聞いたタンスほどの大きさがあるタンノイ(イギリスのスピーカーメーカー)のオートグラフ(タンノイが誇るスピーカーの銘器)から小さな音で流れていた弦楽四重奏の音の美しさはいまだに忘れられない。ほんの何分かその売り場にいただけだと思うが…
その後、藝大に入学した時もオーディオに感心した覚えがある。当時、鍵のかかっている教卓の両端の蓋を開けるとそれぞれオープンリールのテープレコーダーとレコードプレーヤーが組み込まれており、録音スタジオや雑誌でしか見たことのないアルテック社(アメリカのオーディオメーカー)のスピーカーなどが設置されていた。授業の折、先生方はカバンに入らないレコードを小脇に抱えて教室に入って来られたものだ。今でも1号館にはそのまま大きな教卓として使われている教室が残っているのを見ると当時を思い出す。
私が教員になった頃はすでにCDが普及し、レコードと異なり持ち運びが容易となったばかりか学生に聞かせたいと思う箇所はピンポイントで探せるようになり、レコード針を何度も移動させていたその頃の先生方のご苦労が偲ばれる。しかも安価で一定のクオリティを保った音が再現できる時代になった。一見良いこと尽くめであるが、そうだろうか?人間の可聴域に合わせ20Hz~20,000Hzと規格が決まっているCDより40,000Hz位まで自然の振動から再生できるレコード針の方が耳だけでなく、皮膚や全身からも音を感じとることができる。私自身も世の中がレコードからCDに移行する過渡期を経た名残で同じ録音のレコードとC Dを何組か持っているが、明らかにレコードの方が奥行きや自然な広がりを感じ、その上、心地良さや暖かみすら覚える。
歌手のリップノイズ、ピアノのペダルノイズ、弦楽器の発音直前の弓が弦に触れるノイズ、これら全ては音楽を奏でる人間の生き生きとした所作の現れでもあり、ノイズであるが紡ぎ出される音楽の一部であると言えるのではないか。これらの事象を感じ、思うとき、便利になった日常に長年矛盾を抱いている。
本年度前期は原則的に全ての授業がオンラインとなった。通常では教師がピアノを弾くなど実音を伴う授業をオンラインで行う際、受信する学生の端末が持つそれぞれの事情を鑑み、負担がかからないよう、容量の少ない方式で録音する、つまり音質を犠牲にして音源を配信する配慮をした。
生活全てのデジタル化がコロナ禍のため急速に進み、また求められる中、音の配信にとどまらずあらゆる分野で「良い??、美しい?? etc.」の選択は、二の次となっている気がする。そしてその結果、得るものがある一方で「良い??」を切り捨てた分、様々な感覚が育たない若者が増えているのではないかと危惧している。
生活様式が変化し、場所をとるオーディオセットなど見たこともない世代の人たちはスマートフォン1つで何でも手軽に用を済ませている。便利になった一方、本来持っていたはずの人間が忘れてはいけない人生を豊かにするための多くの鋭い感性、感覚を後退させているような気がしてならない。
世界中を苦しめ、ITを積極的に取り入れる生活を余儀なくさせている新型コロナの出現による苦境の今だからこそ、人類の技術の進歩の中で当然の流れとして忘れていた大切なことを少しでも考える契機となってくれたら、と願っている。?
写真(上):2016年頃撮影(大学案内音楽文化学専攻ソルフェージュ紹介より)
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【プロフィール】
照屋正樹
東京藝術大学大学院音楽研究科音楽文化学専攻ソルフェージュ研究室教授
1953年生まれ
東京藝術大学音楽学部作曲科および同大学院音楽研究科修士課程作曲専攻修了
近著:「楽典?音楽の基礎から和声へ(株式会社アルテスパブリッシング刊)」(共著)
近刊:「フォルマシオン?ミュジカル教育法によるティーチングプラン(東京藝術大学出版会刊)」(2021年3月予定)